2024年4月7日(日) 主日礼拝メッセージ

 《一粒の麦》 『分裂がないように・・・』(Ⅰコリント1:10~18節)

 当時、コリントの教会は大きな問題を抱えていたようです。それは不一致とか分裂分派と呼ばれる事柄です。このようなことは明らかに神の国に相応しくない深刻な状況です。「あなたがたはめいめいに、『私はパウロにつく。』『私はアポロに。』『私はケパに。』『私はキリストにつく。』と言っているということです。キリストが分割されたのですか。あなたがたのために十字架につけられたのはパウロでしょうか。あなたがたがバプテスマを受けたのはパウロの名によるのでしょうか」(Ⅰコリント1:12~13節)。教会がこのような状況に陥る原因は多くの場合、人々の視線がイエスさまから他のものに逸れたときです。ですからパウロはコリント教会の人々の視線を再びイエスさまに向けさせようとします。

 また、Ⅰコリント3:4節「ある人が、『私はパウロにつく。』と言えば、別の人は、『私はアポロに。』と言う。そういうことでは、あなたがたは、ただの人たちではありませんか。」ここでパウロは、分裂、分派の原因が柔らかいものしか食べられない肉的クリスチャンである戒めます。ですからキリスト者である者はあらゆる犠牲を払って堅いものが食べられる霊的キリスト者になることを務めなければならないのです。つまり、自己中心的な生き方からイエス中心の生き方に変えることです。その結果、教会は本来の姿を回復し、初代教会のようにいのちと力と喜びに満ちた、しかも聖霊の一致が現われる教会となります。「教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」(エペソ1:23)

2024年3月31日(日) 主日礼拝メッセージ

 《一粒の麦》 『悲しみが喜びに!』(ヨハネ20:11~23節)

 主が十字架に架けられたのは金曜日、通常なら十字架に架けられた犯罪人は十字架から降ろされないのですが、過越の祭りの直前であったので日没までに十字架から降ろす必要があり、両側の犯罪人はすねを折られてまもなく絶命しますが、イエスさまはすでに息を引き取っておられたのですねの骨は折らなかった。しかし、ローマ兵は槍でイエスさまの心臓をめがけて一突きすると血と水が流れ出たと記されています。

 アリマタヤのヨセフは自分のために掘っていた墓があったのでイエスさまをその墓に納めます。ローマ兵はその墓にローマの封印をし、ねずみ一匹入れないようにします。しかし三日目の早朝弟子たちが墓に向かうとイエスさまの遺体は何処にもありません。「イエスの頭に巻かれていた布切れは、亜麻布といっしょにはなく、離れた所に巻かれたままになっているのを見た。」(20:7節)通常頭に巻かれた布は解かない限り抜けません。しかし、弟子たちが目の当たりにしたのは巻かれたままの形で中身がないのです。これを見てペテロはようやく主が復活されたことに気づき始めます。

 もうその日はエルサレム中が混乱状態です。為政者たちは兵士に賄賂を渡し、弟子たちが夜中に遺体を盗んだとフェイクニュースを拡散させ、弟子たちはいたるところで復活された主とお会いしたことを証言します。エマオの二人の弟子もトンボ返りでエルサレムに引き返し自分たちが主にお会いした経緯を詳しく証言します。その時、彼らの目の前に復活の主が現れます。その時の弟子たちの喜びは如何ばかりであったか想像してみて下さい。

2024年3月24日(日) 主日礼拝メッセージ

 《一粒の麦》 『完了した!』(ヨハネ19:17~30節)

 主イエスは十字架上において七つのことばを発していますが、「わたしは渇く」(28節)もその一つです。たいへん難解なことばです。ヨハネ4:34節「わたしを遣わした方のみこころを行ない、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物です」。と言われた主は、もう間もなく御父のみこころを自らの死を通して完了するのを目前にしながら言ったことばが、「わたしは渇く」だったのです。イエスの強烈な渇きは「御父のみこころを完全になし遂げたい」という使命遂行の決意の表れでもあったのです。このような姿勢はイエスさまの全生涯を通して言えることです。

 そして「完了した」ということばが続きます。このことばも私たちキリスト者にとって重要な意味を持ちます。この「完了した」は、創世記2:1節の「こうして、天と地とそのすべての万象は完成された」と同じ意味を持ちます。天地創造の時に完成したものを再び完成するのは明らかに矛盾ですが聖書にそのような矛盾があるはずがありません。矛盾でないとすればどのように解釈すれば良いのでしょうか?

 それはアダムが神の命令に背いて「善悪の知識の木」から取って食べたことに起因します。このことでアダムとエバは神の栄光を失い、神と面と向かって話すことができなくなり、夫婦で責任転嫁の応酬です。やがて長男が次男を殺す事件が起こり、人類は終わりのない絶望への道を転げ落ちることになります。イエスさまの十字架の御業は転げ落ちる以前の栄光ある姿に回復させる計画が「完了」した出来事であったのです。

2024年3月10日(日) 主日礼拝メッセージ

 《一粒の麦》 『わたしはすでに世に勝った』(ヨハネ16:25~33節)

 イエス様が言われる「世」は、私たちを悪や不幸に引きずり込む罪や様々な誘惑、そして愛である神様に反抗しようとする力のことです。イエス様は、地上の歩みの中で、どんな時も父なる神様に祈り「世」に勝たれました。そして、十字架と復活によって、死と悪魔にも打ち勝たれました。すべてに勝利されたイエス様が、私たちを限りなく、深く愛してくださり、勝利を与えてくださっています。今のこの世には、さまざまな苦しみがあり、悩みがあります。でも、十字架上で私たちの身代わりとなって裁きを引き受けてくださり、復活されたイエス様と共に歩む私たちは色々な苦しみや悩みを乗り越える力が与えられています。私たちは、聖書のみことばを通してキリストに教えられ導かれ、この方と交わりながら歩みを続けます。「なぜなら、神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。」(Ⅰヨハネ5:4~5節)。「しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。」(Ⅰコリント15:57節)。「しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主イエス・キリストにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」(ローマ8:37~39節)。

2024年1月28日(日) 主日礼拝メッセージ

 《一粒の麦》   『神のパン』(ヨハネ福音書6:1~15節)▼ 今朝の聖書箇所はパンの奇蹟です。この奇蹟は四福音書すべてに記されています。マタイ福音書は(14:13~21節、15:32~38節)、マルコ福音書は(6:34~44節、8:1~9節)、ルカ福音書は9:12~17節、ヨハネ福音書は6:1~13節です。このことは単にイエスさまがわずかのパンと魚で多くの群衆のお腹を満腹させた奇蹟で済ませてはならないのです。▼ このパンの奇蹟はカペナウムの対岸での出来事で、弟子たちを一足先に船でカペナウムへ向かわせます。イエスさまはひとり祈るために山に退かれます。主は真夜中に荒れ狂う風と波に悩まされていた弟子たちを救い無事対岸に着きます。その翌日後を追いかけて来た群衆に向かって「なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。それこそ、人の子があなたがたに与えるものです。」(ヨハネ6:27節)。▼ さらに、「というのは、神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるものだからです。・・・わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」(6:33~35節) さらに極め付けは「イエスは彼らに言われた。『まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。』・・・」(53節) つまり、目の前に見えるものを信じて生きるのか、神のみことばとみこころに従って生きるのか二者択一を迫られることになります。神の前には裏技もごまかしもふたごころも通用しません。子どものような真実、誠実な心で従う者は幸いです。

 

2024年1月21日(日) 主日礼拝メッセージ

 《一粒の麦》   『あるべき礼拝者の姿』(ヨハネ福音書4:1~26節)

 今朝のヨハネ福音書4章は、サマリヤのスカルという町にあった「ヤコブの井戸」の傍らで起こった出来事が記されています。「ユダヤ人はサマリヤ人とつきあいをしなかったからである。」(9節)とあるように、ユダヤ人はサマリヤ人を毛嫌いしていたのに、この時はいつもは通ることのない道を進んで行きます。従う弟子たちにはその理由がわかりません。「しかし、主は『主はユダヤを去って、またガリラヤへ行かれた。しかし、サマリヤを通って行かなければならなかった。』・・」(3~4節) イエスさまはこの時点で五回も結婚離婚を繰り返し6人目の男と同居している1人の女性の飢え渇きを知っているのです。

 この女性にとって人生の伴侶に何の希望も持っていないことが次の彼女の絞り出すようなことばで察することができます。「女はイエスに言った。『私は、キリストと呼ばれるメシヤの来られることを知っています。その方が来られるときには、いっさいのことを私たちに知らせてくださるでしょう。』・・」(25節)。彼女は自分の飢え渇きを結婚相手が満たしてくれると希望を持って結婚離婚を繰り返したのかも知れません。それが空しい願望であったことを受け入れなければならない状況に至り虚しい感情に襲われます。彼女の飢え渇きは異性でもお金でも財産でも名誉でも満たすことはできません。この激しい飢え渇きはどうしたら満足を得られるのか全く見当がつきません。彼女はその答えをメシヤに求めて求めていたことが上記のみことばで知ることができます。私たちが飢え渇きを持って祈るなら神はすでにそのことを知っていて下さることを信じなければなりません。

2024年1月7日(日) 主日礼拝メッセージ

 《一粒の麦》   『来て、そして見よ!』(ヨハネ福音書1:43~51節)▼ ピリポは友人のナタナエルを見つけ、イエスさまのことを告げ、しかもその方は「メシヤに違いない」と言うではありませんか。ナタナエルは間髪を入れずそれを否定します。彼が祈りながら聖書を熱心に読んでいたことがうかがえます。聖書にはメシヤ誕生地はベツレヘムと預言されているからです。それでピリポは答えます。「来て、そして、見なさい。」と強く促します。イエスさまは近づいてくるナタナエルを指して「これこそ、ほんとうのイスラエル人。彼のうちに偽りがない。」(ヨハネ1:47節)イエスさまからこのような評価を頂くとはなんとも羨ましい限りですが、しかし羨ましがってばかりいては前に進めません。▼ このナタナエルが聖書の中に登場するのはこことヨハネ21:2節だけです。これほど高く評価されたナタナエルが12使徒に入っていないことは不可解です。マタイ10:3節やルカ6:14節では「ピリポとバルトロマイ」とその関係の深さを感じさせます。このバルトロマイがナタナエルと同一人物である可能性が高いのです。実は「バルトロマイ」は名前ではなくニックネームで「バル」は「子」という意味で、バルトロマイとは「トロマイの子」という意味になります。これはペテロの場合も同じで、「バルヨナ、シモン」はヨナの子シモンという意味になります。つまりペテロの父親はヨナであったことがわかるように、ナタナエルの父親はトロマイであったことがわかります。ナタナエルは心が清く子どものように正直で素直で裏表がなく、誠実で勤勉で忠実であったことがうかがえます。私たちもナタナエルから学ぶことはたくさんあるはずです。

 

2023年12月31日(日) 主日礼拝メッセージ

 《一粒の麦》   『貧しい者への福音』(イザヤ61:1~3節)

 ルカ福音書4:16~20節「それから、イエスはご自分の育ったナザレに行き、いつものとおり安息日に会堂にはいり、朗読しようとして立たれた。すると、預言者イザヤの書が手渡されたので、その書を開いて、こう書いてある所を見つけられた。『わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油を注がれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕われ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、主の恵みの年を告げ知らせるために。』イエスは書を巻き、係の者に渡してすわられた。」

 主が安息日にご自分が育った町ナザレの会堂で語られた時の出来事です。主はその時、イザヤ書61:1~2節を読んで係の者に手渡されます。そして次のように続けられます。「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。」(ルカ4:21節)つまり、今朝の聖書箇所イザヤ書61:1~2節がこの瞬間に成就したということは「わたしがその油注がれた者メシヤなのだ」と主ご自身が宣言なさったということです。そして多くの人が主が語る恵みのことばをほめ称えますがある者は反撥します。「・・『この人は、ヨセフの子ではないか。』と彼らは言った」。挙げ句の果てに群衆はイエスさまを高い崖から突き落として殺そうとします。しかし主は彼らの中をすり抜けて難を逃れます。アブラハム、イサク、ヤコブの神は貧しい者、傷ついた者、捕らわれた者、悲しむ者、また在留異国人を守り、みなしごややもめを支えられる神であり、弱い者に力を与えられる神です。

2023年12月24日(日) 主日礼拝メッセージ

 《一粒の麦》   『光が世に来た!』(ヨハネ3:16~21節)

 イエス・キリストの誕生は全能なる神の人類に対する壮大な愛の救済計画です。ですからもし、イエス・キリストの誕生がなかったなら、私たちの存在の目的も意味もなく全くの混乱と暗闇と絶望しかありません。「御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行ないが悪かったからである。 悪いことをする者は光を憎み、その行ないが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。」(ヨハネ3:19~20節)

 「信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。」とはどういう意味でしょうか?さばきは死んでから受けるのではなく、信じていない今もう始まっていると言うのです。イエス・キリストを救い主と信じ受け入れない者は、罪の赦しを全く受けられず、約束の聖霊も永遠のいのちの保証もなく、神のこどもの資格も相続人の資格さえなく、悪魔に対する勝利どころか、悪魔に支配されながら生きることしかできないのです。その上神との素晴らしい交わりを楽しむことも許されていません。これらの恵みを受けられないでいる状態をすでにさばかれていると暗示しているのです。

 これらの恵みの中でも最も大事なことは唯一絶対なる神との生きた交わりができることです。例え多くの財産とお金を持っていても、多くの人々の称賛を受けようとも、そのこと自体はあまり意味のあることではないのです。

2023年10月15日(日) 主日礼拝メッセージ

 《一粒の麦》   『肉的欲望は滅びへの道』(イザヤ5:7~10節)

 神は私たちに実を求めています。イザヤ5:1~4節でも明確です。「彼はそこを掘り起こし、石を取り除き、そこに良いぶどうを植え、その中にやぐらを立て、酒ぶねまでも掘って、甘いぶどうのなるのを待ち望んでいた。ところが、酸いぶどうができてしまった。」この甘いぶどうの実とはガラテヤ書5:22節「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、 柔和、自制です。」さらにマルコ福音書11:12~14節、20~21節。主は空腹を覚え、その時丁度葉の茂ったいちじくの木があるのに気づき実を食べるために近づくと、実が一つもないのです。それで主はそのいちじくの木を呪われたのです。翌日には根まで枯れ果てたいちじくに弟子たちは驚きを隠せません。

 ここで不可解なことがあります。13節「葉の茂ったいちじくの木が遠くに見えたので、それに何かありはしないかと見に行かれたが、そこに来ると、葉のほかは何もないのに気づかれた。いちじくのなる季節ではなかったからである。」常識的にはいちじくの成る季節にいちじくの実を求める方が非常識です。しかし、これは私たちへの教訓が含まれています。それは、たとえ、いちじくの成る季節であろうがなかろうが常に実を付けているべきことを私たちに教えています。もし、私たちが御霊も実を結んでない時に運悪く主の再臨が望むとしたら取り返しのつかない結果になります。ましてや肉の実しか結んでいないとしたら最悪です。「肉の行ない(実)は明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、・・・そういった類のものです。」(ガラテヤ5:19~21節)

2023年10月1日(日) 主日礼拝メッセージ

 《一粒の麦》   『イスラエル滅亡への道』(イザヤ3:12~15節)

 イザヤはウジヤ王が死んだ年(前742年頃)に召命を受けヨタム、アハズ、ヒゼキヤ、さらにマナセの時代まで約50年もの間預言者として活動。この時代の南ユダと北イスラエルの状況はⅡ列王記15~21章に記されています。Ⅱ列王記17:7~8節「こうなったのは、イスラエルの人々が、彼らをエジプトの地から連れ上り、エジプトの王パロの支配下から解放した彼らの神、主に対して罪を犯し、ほかの神々を恐れ、主がイスラエルの人々の前から追い払われた異邦人の風習、イスラエルの王たちが取り入れた風習に従って歩んだからである。」北イスラエルの滅亡が前721年ですから、イザヤは北イスラエル滅亡の真っ只中で預言活動を続けたことになります。

 「アッシリヤの王はイスラエル人をアッシリヤに捕え移し、彼らをハラフと、ハボル、すなわちゴザンの川のほとり、メディヤの町々に連れて行った。これは、彼らが彼らの神、主の御声に聞き従わず、その契約を破り、主のしもべモーセが命じたすべてのことに聞き従わず、これを行なわなかったからである。」(Ⅱ列王記18:11~12)

 「禍福は糾える縄の如し」との諺がありますが、私たちの心構えと忍耐によって災いを被ることを避ける手立てはたくさんあります。常に信仰の原点に立ち帰ることを忘れないことです。さらに謙遜であり続けさえすれば神の恵みを豊かに受ける続けることは可能です。しかし、謙遜とは何かを理解しない限りかけ声倒れになってしまいます。ですから、神のみことばを常に心の中心に置いて常にみことばを口ずさむことが肝要です。

2023年9月17日(日) 主日礼拝メッセージ

《一粒の麦》   『ハムの罪』(創世記9:18~28節)▼ ノアの洪水の後、人類はセム、ハム、ヤペテから増え広がることになります。セムは黄色人種の先祖、ヤペテは白人の先祖、ハムは黒人の先祖と言うことになります。ノア夫婦から白人、黄色人、黒人が生まれたことになります。定住した地域もそれぞれ違い、ヤペテの子孫は今のロシア、ヨーロッパの方へ広がり、ハムの子孫はアフリカ中東、セムの子孫はイスラエルから東の地域に広がったことが窺えます。▼ 「さて、ノアは、ぶどう畑を作り始めた農夫であった。ノアはぶどう酒を飲んで酔い、天幕の中で裸になっていた。」(創9:20~21節)このみことばにあるようにブドウの栽培とぶどう酒造りは歴史的にもかなり早い段階で行われていたことがわかります。ノアはぶどう酒を飲み過ぎて裸になるという大失態を犯します。そこに遭遇したのが一番末の息子ハムです。彼はすぐさま二人の兄にそのことを告げます。ことの真相を告げられたセムとヤペテは「それでセムとヤペテは着物を取って、自分たちふたりの肩に掛け、うしろ向きに歩いて行って、父の裸をおおった。彼らは顔をそむけて、父の裸を見なかった。」(創9:23節)。二人の兄の取った行動は、ハムとは決定的に違うことが酔いが覚めた父のことばからわかります。「のろわれよ。カナン。兄弟たちのしもべらのしもべとなれ。」(創9:25節)私たちは、二人の兄の行動と末息子ハムの行動との違いを明確に理解することは重要です。カナンは父の過ちを鬼の首を取ったかのように自慢げに言いふらし、セムとヤペテは父の失態を「かばう」のではなく「覆う」ことをしたのです。「覆う」ことは愛であり、「かばう」は愛ではありません。

 

2023年9月10日(日) 主日礼拝メッセージ

《一粒の麦》   『虹の契約』(創世記9:1~17節)

 「それで、神はノアと、その息子たちを祝福して、彼らに仰せられた。『生めよ。ふえよ。地に満ちよ。』・・」(創世記9:1節)、「あなたがたは生めよ。ふえよ。地に群がり、地にふえよ。」(創世記9:7節)神は命あるものを洪水によって滅ぼされたとき、ノアの箱舟に入ったものを通していのちあるものが再び地上に増え広がるようにと言われたのですが、最初に人を地上に創造したときの約束のことばとは決定的に違うことに気付きます。創世記1:28節「神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。『生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。』・・・」そうです「地をはうすべての生き物を支配せよ。」このことばがすっぽり抜け落ちているのです。これはうっかりミスではなく偶然でもありません。

 人類は歴史のどこかでこの支配権を失ってしまったのです。考えられる可能性は一つしかありません。それは、アダムとエバが食べてはならないと厳しく戒められていた善悪の知識の木から取って食べたことです。「罪とは律法に逆らうことなのです。」(Ⅰヨハネ3:4節)とあるように、神に罪を犯すことがなければ支配権をサタンに奪われることはなかったのです。Ⅰヨハネ5:19節に「私たちは神からの者であり、全世界は悪い者の支配下にあることを知っています。」とあるように今でもサタンはこの世の支配者です。しかし、イエス・キリストを主と信じ従う者にはこの支配権はサタンの手から神の子どもたちへ回復されることを知るべきです。そしてこの支配権は主のみこころに従って大胆に行使すべきなのです。

 

2023年8月13日(日) 主日礼拝メッセージ

《一粒の麦》   『地の放浪者』(創世記4 :13~26節)

 カインは自分の捧げものが神に受け入れられず、弟アベルの捧げものが受け入れられたことに怒り、ふたりだけのところで弟を殺してしまいます。Ⅰヨハネ3:10~12節「そのことによって、神の子どもと悪魔の子どもとの区別がはっきりします。義を行なわない者はだれも、神から出た者ではありません。兄弟を愛さない者もそうです。互いに愛し合うべきであるということは、あなたがたが初めから聞いている教えです。カインのようであってはいけません。彼は悪い者から出た者で、兄弟を殺しました。なぜ兄弟を殺したのでしょう。自分の行ないは悪く、兄弟の行ないは正しかったからです。」同8節には「罪のうちを歩む者は、悪魔から出た者です。悪魔は初めから罪を犯しているからです。神の子が現われたのは、悪魔のしわざを打ちこわすためです。」

 神はアダムとその妻に対して「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。・・・支配せよ。」と命じられましたが、神の戒めに従わなかった結果、悪魔に支配されるという取り返しのつかない状況を招いてしまいました。弟子のヨハネも兄が弟を殺した出来事は背後に悪魔の働きがあったことを認めています。主の十字架がなければこの人類はこの状況から永遠に逃れることはなかったのです。しかし、Ⅰペテロ2:25節「あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。」私たちは主を信じた結果、本来帰るべきところに帰ることができました。あの放蕩息子の喩えそのもです。そのことをもっと主に感謝し喜びましょう。

2023年6月25日(日) 主日礼拝メッセージ

《一粒の麦》   『祭司の務め』(ローマ15:14~21節)

  黙示録1:6節「また、私たちを王国とし、ご自分の父である神のために祭司としてくださった方である。」また、Ⅰペテロ2:9節「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。」イエス・キリストを救い主と信じて救われると言うことは罪赦されて永遠のいのちを受けるだけでなく、王であり祭司として召されたいうことを忘れてはなりません。

 ただ牧師や伝道者だけが祭司として召されていると思ってなりません。救われて神のしもべとなった者全て王であると共に祭司として召されていることを聖書から理解する必要があります。もし、祭司として召されているのであれば、祭司の務めとはどのようなものかを知るのは当然です。パウロは今朝の聖書の箇所でそのことをはっきりと説明しています。「それも私が、異邦人のためにキリスト・イエスの仕え人となるために、神から恵みをいただいているからです。私は神の福音をもって、祭司の務めを果たしています。それは異邦人を、聖霊によって聖なるものとされた、神に受け入れられる供え物とするためです。」(ローマ15:16節)。多くのキリスト者が「それは牧師や伝道者がすることであって、私たちはとてもできません」と言うかもしれません。それこそ間違いです。私たちキリスト者は日々の生活の中で周りの人たちから感心を持って注目されているのです。だからこそ「自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。」(Ⅰコリント6:20節)言われるのです。

2023年6月18日(日) 主日礼拝メッセージ

《一粒の麦》   『弟子の心得』(ローマ12:9~21節)

 ここに述べられている事柄は、人間的な願いや努力によって達成できるものではありまえん。ヨハネ福音書13:34節「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」互いに愛し合いなさいの意味は、イエスさまが私たちを愛して下さったようにと言う意味です。イエスさまは敵である私たちを愛するが故に十字架に向かわれたのです。

 もし、自分はできていると思っておられる方は今しばらく立ち止まって考えることを勧めます。あの金持ちの青年を思い出して下さい。マタイ福音書では19:16~22節、マルコでは10:17~22節、ルカ福音書では18:18~20節に詳しく記されています。主は永遠のいのちを求めている彼に「戒めはあなたもよく知っているはずです。『殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証を立ててはならない。欺き取ってはならない。父と母を敬え。』すると、その人はイエスに言った。『先生。私はそのようなことをみな、小さい時から守っております。』・・」(マルコ10:19~20節)彼は疑わず「守っています」と言い切っていますが、彼はことの重大さに気付いていません。そのことを彼自身に分からせるために主は彼に、自分の財産を売って貧しい人たちに与えなさいと言われたのです。彼は逃げるようにその場を立ち去ってやがて見えなくなりました。あのイスカリオテ・ユダが主から「あなたがしようとしていることを今すぐしなさい」と言われてとき、暗闇の中に消えて見えなくなった場面を思い出します。恐ろしいことです。

2023年6月11日(日) 主日礼拝メッセージ

《一粒の麦》   『神に秘められた計画』(ローマ11:25~36節)

 パウロは、ローマ9章からずっとイスラエルの救いについて語ってきました。イスラエルが神の唯一の救いであるイエス・キリストを信じないのはどうしてなのか。神はイスラエルをお捨てになられたのか。絶対にそんなことはない。神様は残された民を用意しておられ、彼らを通してイスラエルを救おうと計画しておられたばかりか、そのようにイスラエルがかたくなになったことで救いが異邦人にまで及びました。しかし、やがて異邦人の完成の時がやってきます。その時イスラエルはこぞって主を求め救われるのです。この素晴らしい奥義が明らかに示された時、彼はその神の知恵と知識の深さに驚嘆し、「ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。・・・その道は、何と測り知りがたいことでしょう。」と神をほめたたえずにはいられませんでした。「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。」(詩篇37:5)私たちの人生にはいろいろな事が起こります。こんな事が自分の人生にとってプラスなのかというようなことが起こります。しかし、神様の目から見る時、その中の一つとして不要なものはなく、すべては永遠のご計画の中に位置づけられているものなのです。私たちの側から見て、分からない事はいくらでもあります。それは私たちが有限の存在だからであって、神の側から見る時、そこには実に素晴らしい意味と目的があるのです。「すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。」この神にすべてをゆだねて、感謝と讃美の信仰の生涯を歩んでいきたいものです。

2023年6月4日(日) 主日礼拝メッセージ

《一粒の麦》   『救いは信仰のみ!』(ローマ10:1~13節)

 ローマ書10:3節「というのは、彼らは神の義を知らず、自分自身の義を立てようとして、神の義に従わなかったからです。」律法学者たちは神の義よりも自分の義を重んじたとはどういうことでしょう?マタイ5:20節は参考になります。「まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、はいれません。」ここで言われているパリサイ人の義とは、「人は律法の行いによってしか救われない。」との教えです。パウロも以前はこの教えが真理だと信じて疑いませんでしたが、イエスさまがその律法を終わらせたのです。ローマ10:4節。

 10:6~7節も難解な箇所です。6節「だれが天に上って、命に至る義の律法を取ってきてくれるだろうかと言わなくても良い。」なぜならキリストが降りて下さったから。」です。また、7節「地の奥底に下って命に至る義の律法を取ってきてくれるだろうかと言わなくてもよい。」なぜならキリストが死者の中からよみがえられたのだから。」これはイエスさまの十字架の死と復活のみことばのことです。その真理を疑うことは時間の無駄であり、自分自身を痛め滅ぼすことになり、決して益にはならないのです。

 申命記30:11節「まことに、私が、きょう、あなたに命じるこの命令は、あなたにとってむずかしすぎるものではなく、遠くかけ離れたものでもない。」福音は本来単純で明快で簡単です。しかし、それを難しくしているのは疑いです。主の福音を素直に信じ受け入れない心こそ問題なのです。

2023年5月21日(日) 主日礼拝メッセージ

 《一粒の麦》   『二つの法則』(ローマ7:15~8:2節)

このローマ人へ手紙が書かれたのは紀元56年頃です。ダマスコ途上でのイエスさまとの出会いが33年頃ですから二十以上も経過していることになります。キリスト者として信仰的にも成熟しているはずですが、この箇所を読む限りおいてとてもそのような印象は受けません。特に24節「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」パウロはここで八方塞がりにある惨めな自分の境遇を「誰か~、助けてくれ~」と叫んでいる訳です。

 この絶望の中で見出した答えが8:2節「なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。」ここで言う「いのちの御霊の原理」とは何でしょう?また、「罪と死の原理」とは何でしょうか?このみことばの中にこそパウロの福音の本質を見出します。しかもそれはとんでもない真理です。悪魔は罪を犯した者の辿り着く場所を知っていました。それは死(永遠の滅び)です。一度であっても罪を犯した者に起こる避けられない運命です。それは丁度私たちが引力によって地球の中心に引っ張られるようなものです。罪を犯した時、瞬時にして地獄に引きずり込むとてつもない死と滅びの力が働くのです。この法則から逃れる術はありません。どんなに良い善行をもってしてもなんの助けにもなりません。結果的に行いによって救われる人は一人もいないということです。しかし、「いのちの御霊の原理」とは、それをはるかに越えた力で私たちを天国に引き上げるのです。それこそイエスさまの十字架と復活により信じる者に与えられる聖霊です。

2023年5月7日(日) 主日礼拝メッセージ

《一粒の麦》   『敵であった時でさえ・・』(ローマ5:1~11節)▼ アダムの罪以来、私たち人類は神に敵対する存在となってしまいました。神から勘当されたままの状態で呪われつづけていたのです。ガラテヤ3:13節「キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、『木にかけられる者はすべてのろわれたものである。』と書いてあるからです。」主イエスは私たちのために神の呪いを受けられたのです。主イエスの十字架によって私たちの罪は完全に赦されました。それだけではありません。永遠のいのちも頂きました。更に約束の聖霊と聖霊の満たしも求めさえすれば誰にでも与えて下さるのです。イエスさまの十字架によって私たちに与えられたものはまだまだたくさんあります。病からの癒しもそうです。神の子とされ相続人としての特権も与えられています。神は世の終わりまでいつも信じる者と共に居て下さることも約束されました。死に対する勝利も与えられています。サタンに対しても勝利もそうです。ルカ福音書10:19節「確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。」これらの恵みは私たちが何か良い行いをした結果ではありません。神さまの方から手を差し伸べて下さったのです。「もう。わたしはあなた方を憎んではいない。イエスによって贖いは終わったから仲直りしましょう!」と神さまの方から和解の手を差し伸べて下さったのです。私たちはそれに応答し救いを得た者です。感謝しましょう。

 

2023年4月23日(日) 主日礼拝メッセージ

《一粒の麦》   『文字は殺し、御霊は生かす』(ローマ3:9~20節)

 モーセはシナイ山で律法の授けられました。その神の律法を守る約束をして契約の民となりましたが、彼らは神の律法を守れなかったのです。それどころか、律法を守ることが神から頂いた特権を失わないことだと信じていたユダヤ人は割礼を受けていることを自慢しているかのようにさえ見えます。パウロもかつてははそのような者のひとりだったのですが、主との出会いによって律法というものが罪の意識を強く持たせる働きしかないことに愕然とします。パウロはここに詩編14:1~3節を引用します。

 「愚か者は心の中で、『神はいない。』と言っている。彼らは腐っており、忌まわしい事を行なっている。善を行なう者はいない。主は天から人の子らを見おろして、神を尋ね求める、悟りのある者がいるかどうかをご覧になった。彼らはみな、離れて行き、だれもかれも腐り果てている。善を行なう者はいない。ひとりもいない。」このみことばはかなり衝撃的です。しかし、神が人類を天から見下ろしたときまさにこの通りです。今のロシアとウクライナの戦争をみても、人類は過去の世界大戦から何も学んでいないことを知らされ、歴史は繰り返すと言いますが、自分との主義主張が違うからとか自分の利益にならないとかの理由で多くの命を犠牲にしても良いとは思えません。ルカ福音書18:9~14節のパリサイ人は自分が律法を守っていると慢心し、隣りの取税人を軽蔑している姿は私たちそのものです。「世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」(使徒4:12節)  この方以外に救いはありません。

2023年3月19日(日) 主日礼拝メッセージ

《一粒の麦》  『破滅へと進むイスラエル』(ルカ20:9~19)

  イスラエルには野生のイチジクがたくさんあり、1年に二度実がなります。春の実は5月ごろにはほとんど落ちてしまいます。初夏になると新しい実が鈴なりになり、これは秋に出荷される甘い実です。主が呪われたイチジクは春に実をつけていなかったイチジクです。

 イエスさまがこのイチジクを呪われたのは主が宮清めをなさったときです。「宮にはいられたイエスは、商売人たちを追い出し始め、こう言われた。「『わたしの家は、祈りの家でなければならない。』と書いてある。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にした。」(ルカ19:45~46節)ですから、「呪われたイチジクの木」と「ぶどう園と農夫」のたとえと「宮清め」には密接な関連性があると考えるべきです。「わたしの家は、祈りの家でなければならない」とあるようにイエスさまが最初に来られたとき、イスラエルには霊的実りがないばかりか、主が再び来られることも知る由もありません。最初の来臨は民の贖いのためであり、二度目はメシヤ王国を建て上げです。霊的実りのないイスラエルの民を実を結ばないいちじくの木に置き換えてお叱りになり根こそぎ枯らしてしまわれました。私たちが見ているように彼らは西暦70年以来、祖国を失い世界中に離散しました。与えられた律法を後ろに投げ捨て、自分たちの救いの岩を忘れるだけでなく、産みの苦しみをして下さった神を軽んじ、反逆の歴史を積み重ねてきたのです。悔い改めのために神が遣わされた預言者をことごとく殺し、挙げ句の果てにひとり子の神であるイエスさまさえを殺してしまう取り返しのつかない暴挙に走ってしまいました。そのことを泣いて悔い改める時が近づいています。

2023年3月5日(日) 主日礼拝メッセージ

《一粒の麦》   『その時、信仰は・・・』(ルカ18:1~8節)▼ マタイ福音書24:3節「イエスがオリーブ山ですわっておられると、弟子たちが、ひそかにみもとに来て言った。『お話しください。いつ、そのようなことが起こるのでしょう。あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう。』・・」弟子たちはイエスさまの「再臨」と「世の終わりの前兆」についてはっきりと質問し、その質問に対し、イエスさまの答えは明確です。誰が読んでも誤解の余地はありません。▼ しかし、ルカ福音書19:11節では「人々がこれらのことに耳を傾けているとき、イエスは、続けて一つのたとえを話された。それは、イエスがエルサレムに近づいておられ、そのため人々は神の国がすぐにでも現われるように思っていたからである。」自分たちが生きている間に終末が来ると思い込んでいた人たちがいたからです。弟子たちにしても主の再臨までにこれほどの時を要するとは考えていなかったように思えます。▼ しかし、間違いなく今は主の再臨がいつ起きても不思議ではない時代に私たちは生きているのです。その根拠は1948年イスラエル民族が約束の地に祖国を再建した事実です。反キリストの出現とエルサレム神殿の再建の噂を耳にするようなことがあればいよいよ決定的です。今朝のみことばは主の再臨の時、「しかし、人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。」(ルカ18:8節)このときイエスさまが言われた「信仰」とはどのような信仰でしょうか?黙示録2:10節に「死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。」今朝共に学びたいと願っています。

 

2023年2月19日(日) 主日礼拝メッセージ

《一粒の麦》     『更に恵まれる秘訣』(ルカ8:16~18節)▼ 「だから、聞き方に注意しなさい。というのは、持っている人は、さらに与えられ、持たない人は、持っていると思っているものまでも取り上げられるからです。」(ルカ8:18節)持っている人は更に豊かに与えられると約束されていますが、では「持っている」とは何の意味でしょうか?そのヒントは8:15節「良い地に落ちるとは、こういう人たちのことです。正しい、良い心でみことばを聞くと、それをしっかりと守り、よく耐えて、実を結ばせるのです。」とあり、また8:21節「ところが、イエスは人々にこう答えられた。『わたしの母、わたしの兄弟たちとは、神のことばを聞いて行なう人たちです。』・・」▼ つまり、イエスさまの言われることをそのまま信じて、信じた通りに生きる人のことで、その人はイエスさまに全幅の信頼を置いていることになるので当然祝福されて行くことになります。箴言16:20節には次のように記されています。「みことばに心を留める者は幸いを見つける。主に拠り頼む者は幸いである。」私はイエスさまを信じていますと言いながら、そのみことばに従っていないクリスチャンがなんと多いことでしょうか。牧師である私も例外ではありません。主は言われます。最も大切なことは「心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」(マルコ12:29節)。そして神を愛するとはⅠヨハネ5:3節「神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。」このみことばでもわかるように、神を愛することと、神の命令に従って生きることは同じ意味であり、そのような人は恵みの上に更に恵みを受けると言うのです。

 

2023年2月12日(日) 主日礼拝メッセージ

《一粒の麦》     『更に恵まれる秘訣』(ルカ8:16~18節)

 「だから、聞き方に注意しなさい。というのは、持っている人は、さらに与えられ、持たない人は、持っていると思っているものまでも取り上げられるからです。」(ルカ8:18節)持っている人は更に豊かに与えられると約束されていますが、では「持っている」とは何の意味でしょうか?そのヒントは8:15節「良い地に落ちるとは、こういう人たちのことです。正しい、良い心でみことばを聞くと、それをしっかりと守り、よく耐えて、実を結ばせるのです。」とあり、また8:21節「ところが、イエスは人々にこう答えられた。『わたしの母、わたしの兄弟たちとは、神のことばを聞いて行なう人たちです。』・・」

 つまり、イエスさまの言われることをそのまま信じて、信じた通りに生きる人のことで、その人はイエスさまに全幅の信頼を置いていることになるので当然祝福されて行くことになります。箴言16:20節には次のように記されています。「みことばに心を留める者は幸いを見つける。主に拠り頼む者は幸いである。」私はイエスさまを信じていますと言いながら、そのみことばに従っていないクリスチャンがなんと多いことでしょうか。牧師である私も例外ではありません。主は言われます。最も大切なことは「心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」(マルコ12:29節)。そして神を愛するとはⅠヨハネ5:3節「神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。」このみことばでもわかるように、神を愛することと、神の命令に従って生きることは同じ意味であり、そのような人は恵みの上に更に恵みを受けると言うのです。

2023年1月29日(日) 主日礼拝メッセージ

の麦》      『バプテスマのヨハネの疑問』(ルカ7:18~35節)

 バプテスマのヨハネがヘロデ大王によって捕らわれている獄中から、弟子の中から二人をイエス様の所に遣わして、「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも私たちは他の方を待つべきでしょうか。」(7:19節)と言わせた。とあります。旧約聖書でのメシヤ預言は、「神である主の霊が、わたしの上にある。・・・捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ」(イザヤ61:1)と預言されている。今、捕らわれている自分を解放してくれないのか。という疑問がわきました。それに対するイエスの答えは「あなたがたは行って、自分たちの見たり聞いたりしたことをヨハネに報告しなさい。・・・」(7:22・23節)と言われてヨハネの使いは帰りました。そしてイエスは群衆にヨハネについて話しだしました。これは、ヨハネがイエスに質問したことを知った群衆がヨハネを疑ったり、軽く見たり、過小評価する人が出てくる可能性があり、その誤解を解くために、ヨハネについて証言しヨハネを高く評価されました。ここでイエスが語っている内容は、ヨハネの名誉を守るための内容描写(7:24~28節)となっています。29節では、ヨハネの教えを聞いたすべての民は、取税人たちでさえ、ヨハネのバプテスマを受けて、神の正しいことを認めたのです。30節では、これに反して、パリサイ人や律法の専門家たちは、彼からバプテスマを受けないで、神の自分たちに対するみこころを拒みました。そして31節以下は、不信仰な世代に対してイエスがたとえによって叱責したことが語られています。私たちも主イエスは救い主です。とどんな時でも言える堅い信仰を持ち続けたいものです。

2023年1月22日(日) 主日礼拝メッセージ

《一粒の麦》      『安息日の主』(ルカ6:1~11節)

 マタイ23章には当時の律法学者やパリサイ人、すなわち政治的、宗教的指導者たちに対するイエスさまのたいへん厳しいことばが続きます。23:13節「忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。」、14節「忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。」、15節「忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。」、23章だけでも十三回も語られています。これは尋常ではありません。彼らがみことばの真理からいかに逸脱していたかが想像できます。

 特に彼らの安息日規定の理解は本末転倒です。マルコ2:27節「安息日は人間のために設けられたのです。人間が安息日のために造られたのではありません。」主がこのように言われたのは、彼らが安息日規定の奴隷と成り下がっていることへの耐え難い怒りと失望と憂いを読み取ることができます。しかし彼らの反応は「そこでパリサイ人たち・・・すぐにヘロデ党の者たちといっしょになって、イエスをどうして葬り去ろうかと相談を始めた。」(マルコ3:6節)何を根拠に自分たちをこのような酷いことばを言い放つのかを考えないで逆ギレし「殺してしまえ!」とは驚きです。人間の心情としては誰もが経験することですが、真理を探究し民衆を正しい道に導かなければならないのは当然の使命です。私たちも油断すると同じ轍を踏むことに成り得ます。主が言われる偽善者の姿について深く学びます。マタイ23:3節「ですから、彼らがあなたがたに言うことはみな、行ない、守りなさい。けれども、彼らの行ないをまねてはいけません。彼らは言うことは言うが、実行しないからです。」

2023年1月8日(日) 主日礼拝メッセージ

《一粒の麦》      『巧妙な悪魔の罠』(ルカ4:1~13節)

 私たちはこの世は神が支配していると思っていますが、聖書はそれを否定しています。今朝のみことばの中にもはっきり示されています。それはルカ4:6節「この、国々のいっさいの権力と栄光とをあなたに差し上げましょう。それは私に任されているので、私がこれと思う人に差し上げるのです。」また、「私たちは神からの者であり、全世界は悪い者の支配下にあることを知っています」(Ⅰヨハネ5:19節)。

 但し、二千年前のイエスさまの十字架までは確かにその通りですが、イエスさまに対して「あなたは、生ける神の御子キリストです。」と告白する者は別です。アダムが罪を犯した結果失うことになった支配権はイエスさまを信じる者には回復されています。それはⅠコリント3:23節「パウロであれ、アポロであれ、ケパであれ、また世界であれ、いのちであれ、死であれ、また現在のものであれ、未来のものであれ、すべてあなたがたのものです。」のみことばの通りです。世のものを手に入れるために魂を悪魔に売り渡すようなことがあってはなりません。今朝のみことばでも分かるように、悪魔はイエスさまに対してまでもみことばを使って巧妙に誘惑しています。あたかも天のお父さまのみこころであるかのように試みるのです。ですから私たちは悪魔の誘惑を軽く見てはなりません。もし、聖霊さまの知恵と助けがなければいとも簡単に誘惑に陥ることになります。「あなたに罪を犯さないため、私は、あなたのことばを心にたくわえました。」(詩編119:11節)悪魔に勝利するためにみことばを心に蓄え聖霊さまの助けを常に祈る必要があります。

2023年1月1日(日) 主日礼拝メッセージ

《一粒の麦》      『十二歳のイエス』(ルカ2:41~52節)

 イエスさまの誕生についてはかなり多くの詳しい情報は聖書にしるされています。ヘロデ大王が亡くなったことを知って両親は幼子を連れてエジプトからガリラヤ地方のナザレという町に帰ってきます。しかし、その後の消息はどの福音書にも記されていません。唯一今朝のルカの福音書だけが12歳のイエスさまの様子を書き残しています。ですから、この箇所は私たち信仰者にとって計り知れない恵みを与えてくれます。

 「幼子は成長し、強くなり、知恵に満ちて行った。神の恵みがその上にあった。」(ルカ2:40節)、「聞いていた人々はみな、イエスの知恵と答えに驚いていた。」(同2:47節)、「イエスはますます知恵が進み、背たけも大きくなり、神と人とに愛された。」(同2:52節)。このように「知恵」ということばが何度も記されています。

 今朝はこの知恵についてご一緒に学びたいと思います。箴言3:13~15節「幸いなことよ。知恵を見いだす人、英知をいただく人は。それの儲けは銀の儲けにまさり、その収穫は黄金にまさるからだ。知恵は真珠よりも尊く、あなたの望むどんなものも、これとは比べられない。」ここに記されている知恵は地上のどんな宝物も比較にならないほど貴いもので何ものをもってしてもこれには代えられないというのです。そしてこの宝をコロサイ2:3節ではキリストだというのです。「このキリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されているのです。」 私たちはキリストのついて知ることより、キリストご自身を知ることに視点を置かなければなりません。キリストとの交わりこそ知恵に満たされる秘訣です。

2022年12月4日(日) 主日礼拝メッセージ

《一粒の麦》    『洗礼者ヨハネの誕生』(ルカ1:5~25節)

  Ⅰ歴代誌24:7~18節には、アロンの子、エルアザルとイタマルの子孫が24組に分けられていて、祭司ザカリヤは第八のアビヤの組に属していており、祭司社会でも特別な名門であったと言われます。当時祭司の人数は18,000人程、朝夕神殿で香をたく務めは組の祭司の間でくじを引いて決めていました。これは一生に一度しか担当できない光栄ある務めで、中には一度も担当できずに死を迎える祭司もいました。

 「祭司職の習慣によって、くじを引いたところ、・・・」(1:9節)とあり、なんとも人間的で原始的な方法のように見えますが、聖書には神のみこころを知るためにくじを引いたことが散見できます。使徒の働き1:26節「そしてふたりのためにくじを引くと、くじはマッテヤに当たったので、彼は十一人の使徒たちに加えられた。」また箴言16:33節「くじは、ひざに投げられるが、そのすべての決定は、主から来る。」とあるように信仰を持って正しい心で求めるならくじは神のみこころを求める有効な手段であることがわかります。

 ザカリヤに起こった一連の不思議な出来事からも、くじによって香をたく務めに与ったのも偶然ではなかったことがわかります。預言の通り年老いたゼカリヤ夫婦の間に誕生したのが洗礼者ヨハネです。主はこのヨハネのことをつぎのように証言しています。「まことに、あなたがたに告げます。女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ませんでした。しかも、天の御国の一番小さい者でも、彼より偉大です。」(マタイ11:11節)今朝はこのバプテスマのヨハネについて一緒に学びます。

2022年11月27日(日) 主日礼拝メッセージ

《一粒の麦》    『聖霊の力を帯びる』(ルカ4:16~21)

 「イエスもバプテスマをお受けになり、そして祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のような形をして、自分の上に下られるのをご覧になった。」(ルカ3:21~22節)そしてルカ4:1節には「さて、聖霊に満ちたイエスは、ヨルダンから帰られた。そして御霊に導かれて荒野におり、」イエスが福音宣教の公生涯にお入りになる前に、悪魔の策略に勝利するために、聖霊の力に満たされることが必要でした。「イエスは御霊の力を帯びてガリラヤに帰られた。すると、その評判が回り一帯に、くまなく広まった。」(ルカ4:14節)このことはイザヤ61:1~2節の預言の成就でもありました。

 そして旧約聖書のイザヤ書やほかの箇所にも、メシヤが聖霊に満たされて実に数多くの働きをされることが預言されていて、その通りのことがイエスさまの上に起こりました。そしてイエスさまは弟子たちに言われました。「いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」(ルカ24:49節)これは明らかに聖霊に満たされるまでは出ていってはならないとの意味です。そして主の召天から十日後、120名の弟子たちが聖霊に満たされる体験をします。この出来事によって福音は力強く前進し始めることになります。このことは現代に生きる私たちについても同じことが言えると思います。聖霊の満たしがあって初めて、語るべき言葉を与えられ、大胆に力強く福音を宣べ伝えることができます。何をおいても、先ず聖霊の満たしを求めること。それはまず、神のみこころを行うこと。つまり神の命令(みことば)に従って信仰生活をすることであります。

2022年11月13日(日) 主日礼拝メッセージ

《一粒の麦》    『律法の理解』(ネヘミヤ記7:72~8:12節)▼ 「城壁が再建され、私がとびらを取りつけたとき、門衛と、歌うたいと、レビ人が任命された。」(ネヘミヤ7:1節)つまり、これは城壁の完成を意味します。同8:1節「イスラエル人は自分たちの町々にいたが、第七の月が近づくと、民はみな、いっせいに、水の門の前の広場に集まって来た。」これは、城壁修復完成の翌月のことで、帰還したユダヤ人たちは心を一つにして「水の門の前の広場」に集まったきます。エズラは民よりも一段高い所から民衆に向かってモーセの律法を早朝から昼まで朗読し、レビ人たちは協力して読まれた律法を理解出来るように民衆を助けます。民衆は読まれた律法をはっきりと理解し、その結果律法を理解した民に大きな喜びが起こります。8節「彼らが神の律法の書をはっきりと読んで説明したので、民は読まれたことを理解した」。同9節「総督であるネヘミヤと、祭司であり学者であるエズラと、民に解き明かすレビ人たちは、民全部に向かって言った。『きょうは、あなたがたの神、主のために聖別された日である。悲しんではならない。泣いてはならない。』民が律法のことばを聞いたときに、みな泣いていたからである。」民が読まれたモーセの律法を理解した時、広場は悲しむ者、感動のあまり泣く者で溢れたからです。▼ その時、指導者たちは泣くのを止め「行って、上等な肉を食べ、甘いぶどう酒を飲みなさい。何も用意できなかった者にはごちそうを贈ってやりなさい。・・・悲しんではならない。あなたがたの力を主が喜ばれるからだ」(同10節)。新共同訳は「主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。」と訳していることはアーメンです。

 

2022年11月6日(日) 主日礼拝メッセージ

《一粒の麦》    『城壁の再建』(ネヘミヤ記2:11~20節)

 ペルシャの王クロスによる神殿再建命令(エズラ1:3節)がBC538年、アルタシャスタ王によるエルサレム再建命令(エズラ7:13節)がBC457年、アルタシャスタ王による城壁再建命令(ネヘミヤ2:1節)がBC445年に出されたことはわかっています。神殿再建命令から城壁の再建命令が出るまで約93年経過しています。神殿も完成し、イスラエル人の信仰もエズラとレビ人たちによって再び立て上げられますが、城壁はまだ破壊されたままの状態です。城壁再建の命を受けたネヘミヤはエルサレムに帰還し、自分がエルサレムに来た目的はまだ誰にも打ち明けていません。そのタイミングを間違えると再建を快く思わないグループの妨害を受ける危険性があったからでしょう。ある日、誰にも相談せず現状を確かめるため夜中に起き出して密かに城壁を見回ります。それは破壊されたままで無残な状況です。

 箴言25:28節に「自分の心を制することができない人は、城壁のない、打ちこわされた町のようだ。」とあるように、私たちも自分の心を自制することができなければ、敵(悪魔)の攻撃に対して無防備な状態にあることを理解する必要があります。攻めてくる敵にとって見るからに難攻不落な城壁は戦意をくじくことになります。ヨハネ15:9~10節「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。」私たちの堅固な城壁とは、あらゆる努力をしてみことばに従うことです。

2022年10月30日(日) 主日礼拝メッセージ

《一粒の麦》    『ネヘミヤの勇気と決意と祈り』(ネヘミヤ記2:1~10節)

 「ああ、主よ。どうぞ、このしもべの祈りと、あなたの名を喜んで敬うあなたのしもべたちの祈りとに、耳を傾けてください。どうぞ、きょう、このしもべに幸いを見せ、この人の前に、あわれみを受けさせてくださいますように。」そのとき、私は王の献酌官であった。」(1:11)「この人」とはペルシャのアルタシャスタ王のこと。(2:1)ネヘミヤは王の高官として仕えていましたが、捕囚から残ってのがれたユダヤ人とエルサレムのために神が王に働きかけてくださるように祈りました。ほかの人々に何かをしてもらいたいと思うときは、まず神にその願いを祈りますが、そのとき神はご自分の目的を実行するために、知恵を与え、ほかの人々の心を感動させ、強力な指導者も起こしてくださいます。「王の心は主の手の中にあって、水の流れのようだ。みこころのままに向きを変えられる。」(箴言21:1)「そこで私は、天の神に祈ってから」(2:4)どの場面でもネヘミヤが最初に行ったことは祈ることでした。そして王の質問に応える前に、助けと知恵を求めて神に祈りました。この短い祈りでも神は導いてくださったのです。それはエルサレムの悲惨な状況を聞いてから、4ヶ月間祈り続けた結果だと言えます。そしてネヘミヤの決意と実行力は、神からの偉大な力と神を信じる信仰からきています。「私の神の恵みの御手が私の上にあった。」(2:8)神はともにおられ知恵を与え、勇気と信仰を与え、神の目的を達成してくれる者を祝福します。私たちも日々どんな時でも一瞬たりとも神を忘れず信頼し、導きと助けを祈り求めるなら、祈りは必ず神に届き働いてくださるのです。

2022年10月2日(日) 主日礼拝メッセージ

《一粒の麦》    『エレミヤによる預言の成就』(エズラ1:1~11節)

 「ペルシヤの王クロスの第一年に、エレミヤにより告げられた主のことばを実現するために、主はペルシヤの王クロスの霊を奮い立たせたので・・・」(エズラ1:1節)ここのエレミヤにより告げられて主のことばとはエレミヤ書29:10節「まことに、主はこう仰せられる。『バビロンに七十年の満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにわたしの幸いな約束を果たして、あなたがたをこの所に帰らせる。・・」のことであり、同25:11~12節も同じような内容の預言です。ダニエルもこのエレミヤの預言を目にし祖国帰還の時を悟り断食し祈ったことが記されています。「すなわち、その治世の第一年に、私、ダニエルは、預言者エレミヤにあった主のことばによって、エルサレムの荒廃が終わるまでの年数が七十年であることを、文書によって悟った。」(ダニエル9:2)。

 この時、ユダヤ人に祖国へ帰還しエルサレム神殿再建命令を発したのが異教徒であるペルシャの王クロスです。普通なら絶対に有り得ない事は「主はペルシヤの王クロスの霊を奮い立たせたので」とあるように、異教徒の王クロスの霊を奮い立たせたのはイスラエルの神です。このことによってもこの世界を支配し導いておられる方は聖書の神であることの紛れもない証拠です。しかも、ペルシャの王クロスが即位する百五十年以上も前にイザヤによって預言されていたことも驚きです。「わたしはクロスに向かっては、『わたしの牧者、わたしの望む事をみな成し遂げる。』と言う。エルサレムに向かっては、『再建される。神殿は、その基が据えられる。』と言う。」(イザヤ44:28節)

2022年9月25日(日) 主日礼拝メッセージ

《一粒の麦》    『終わりの時が来るまで』(ダニエル書12:1~13)

 12章をもってダニエル書は終わります。捕囚の民としてエルサレムからバビロンに連れて来られた時、まだ少年だったダニエルも、今はもう人生の晩年を迎えています。そしてダニエルは明らかに「死」を前にして次のような御言葉でダニエル書は閉じられます。

 13節「あなたは終わりまで歩み、休みに入れ。あなたは時の終わりに、あなたの割り当ての地に立つ。」神様は「休みに入れ」これは「死」を意味する御言葉です。それに続く「あなたは時の終わりに」というのは、この世の終わり、終末の出来事を意味しています。私たち一人ひとりにも終わりがあり、この世界にも終わりがある。この終わりのことを真剣に受け入れなければなりません。終わりのことをどう理解するかが、そのまま、私たちがどう生きるかということに結びつくからです。

 世の終わりは、神が与えてくださる救いが完成する時です。その救いの恵みに、今すでに与かっているからこそ、私たちは地上の歩みを最後まで真剣に生きることができる。そのように神様は私たちを励まし導いてくださるのです。イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権限が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」(マタイ28:18~20節)

2022年9月11日(日) 主日礼拝メッセージ

《一粒の麦》    『ダニエル、その信仰に学ぶ』(ダニエル6:9~29節)

 ダニエルは少年の頃、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴと共にユダの地から捕囚として連れて来られ、宦官となるための高度な教育を受け、やがてバビロン帝国において高位に抜擢されその信頼は揺るぎないものとなります。ダニエル書5章は、バビロン帝国がメディア・ペルシャ帝国の奇襲作戦によって終焉を迎え歴史的重大事件が生々しく記録しています。この時もダニエルが重要な働きをしたことが克明に記されています。

 ダニエルはペルシャ帝国においても尚、重責を担うことになります。「彼はまた、彼らの上に三人の大臣を置いたが、ダニエルは、そのうちのひとりであった。太守たちはこの三人に報告を出すことにして、王が損害を受けないようにした。ときに、ダニエルは、他の大臣や太守よりも、きわだってすぐれていた。彼のうちにすぐれた霊が宿っていたからである。そこで王は、彼を任命して全国を治めさせようと思った。」(ダニエル6:2~3節)

 しかし、そのことが他の大臣や太守たちの激しい妬みを買うことになります。このようなことはいつの時代にも何処においても起こり得ることでダニエルにとって鬱陶しい問題です。伝道者の書4:4節「私はまた、あらゆる労苦とあらゆる仕事の成功を見た。それは人間同士のねたみにすぎない。これもまた、むなしく、風を追うようなものだ。」ダニエルにとって人の出世や栄誉などどうでもよいことで、ただ自分の信じる神の前に最善を尽くし、成すべきことに忠実であろうとしただけに過ぎません。私たちはダニエルの生涯を通じて揺らぐことのない神に対する忠実性と誠実性を学ぶ必要があります。

2022年9月4日(日) 主日礼拝メッセージ

《一粒の麦》  『燃えさかる火の中へ』(ダニエル3:13~30節)

 「ネブカデネザル王は金の像を造った。その高さは六十キュビト、その幅は六キュビトであった。彼はこれをバビロン州のドラの平野に立てた。」(ダニエル3:1節)とあり、この像を拝まない者は誰であっても燃えさかる炉に投げ込まれるという命令です。この時、ダニエルは何らかの理由で名前がありませんが、彼の同僚シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴにとっては命に関わる一大事です。しかし、ユダの地から連れて来られた彼らにとって選択の余地などありません。彼らの信仰告白は実に力強く確信に満ち迷いはありません。「シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴはネブカデネザル王に言った。『私たちはこのことについて、あなたにお答えする必要はありません。もし、そうなれば、私たちの仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。・・・もしそうでなくても、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々に仕えず、あなたが立てた金の像を拝むこともしません。」(ダニエル3:16~18節)。彼らの信仰告白は、1614年6月5日富岡城下で殉教したアダム・荒川の告白を思い出します。彼はなんとか転ばせようとする川村四郎左衛門(富岡城藩代)に対して「神に背けとおっしゃるのか。自分の神を辱めよと申されるか。天下の将軍さまのご命令であろうと、それだけはご勘弁願いたい」万策尽きた藩主、寺沢広高はアダムの死刑を命じます。アダムの信仰は現代を生きる私たちに対する励ましであり慰めです。あのシャデラク、メシャク、アベデ・ネゴのように、「たとえ神が炎の中から自分たちを助け出すことがなくても金の像を拝むことは絶対しません。」との信仰に立ちたいものです。

2022年8月21日(日) 主日礼拝メッセージ

《一粒の麦》  『バビロンの宮廷におけるダニエル』(ダニエル1:1~21節)

 本日の聖書箇所は、神はバビロンのネブカデネザルがエルサレムを攻撃することを許され、ダニエルと友人が捕虜となりバビロンに送られました。そこでのダニエルたちは、神への信仰を持ち続け、やがて王宮に召出されることになります。

 この出来事をイザヤが預言しています。「見よ。あなたの家にある物、あなたの先祖たちが今日まで、たくわえてきた物すべて、バビロンへ運び去られる日が来ている。何一つ残されまい、と主は仰せられます。また、あなたの生む、あなた自身の息子たちのうち、捕らえられてバビロンの王の宮殿で宦官となる者があろう。」(イザヤ39:6~7)。

 ダニエルについては、異教徒の地にあり困難な中で、神に喜ばれることを心に抱く若者として描かれています。ダニエルは一個人として献身的に主に仕え、あらゆる悪から聖別された全き歩みをしました。8節にあるように「ダニエルは、王の食べるごちそうや王の飲むぶどう酒で身を汚すまいと心に定め、身を汚さないようにさせてくれ、と宦官の長に願った。」神は限りない恵みをもって、他のいかなる預言者に対してよりも、ダニエルの歩みや働きに関して、御心を啓示することを喜ばれました。この最も困難な場所と危険な時代にあってダニエルの完璧な証しは、終末の時代に生かされている私たちが見習うべき模範であります。常に神に喜ばれる道を歩み、王に祝福を運び、み使いへの関心を呼び起こした彼は、世の終わりに臨んでいる私たちに利益をもたらす数少ない証人の一人である。と言えるでしょう。

2022年8月7日(日) 主日礼拝メッセージ

《一粒の麦》    『勝利の武具』(エペソ6:10~20節)

 「悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。・・・・腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、足には平和の福音の備えをはきなさい。これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。」(エペソ6:11~17節)。このみことばは、キリスト教は平和主義の宗教だと思っている人には違和感を思えるみことばです。しかし、これもキリストの教えそのものです。

 ある意味信仰は戦いそのものであると言っても過言ではありません。そして戦いの相手は「血肉に対するものではなく」とあり、キリスト者の戦いの相手は人間ではなく、サタンの軍勢だというのです。世界の歴史を通じて思わされることは、戦う相手を間違えた結果の戦争の悲惨さです。そして私たちの戦いの武器についてはⅡコリント10:4節「私たちの戦いの武器は、肉の物ではなく、神の御前で、要塞をも破るほどに力のあるものです。」とあるのですが、キリスト者は多くの場合この強烈な武器を使う手立てを知らないようです。

 もし、私たちが聖霊に満たされる経験をするならば、このみことばの意味を体験することになると思っています。悪魔、サタンは実在し思うままに人間の心を偽りの考えで惑わし、世界各地において多くの戦いをもたらし無駄な血が流されている現実を見ています。

2022年7月31日(日) 主日礼拝メッセージ

《一粒の麦》    『偶像礼拝者』(エペソ5:1~20節)

  聖書は繰り返し偶像礼拝を戒めていますが、今朝はこの偶像礼拝について考えてみたいと思います。偶像とは、一般社会の概念で言うと神ではないものを神とすることであり、偶像礼拝者とはその偽りの神を神として拝む行為と定義することができるかと思います。1コリント8:4節「私たちは、世の偶像の神は実際にはないものであること、また、唯一の神以外には神は存在しないことを知っています。」これらの他に悪魔、悪霊を神として崇める者も少なくありません。また、お金や財産や地位や名誉も時として神に成り得るのです。

 ですから、私たちは聖書が言うところの偶像礼拝とは何かを知ることはとても重要なことなのです。今朝の聖書箇所エペソ5:5節「あなたがたがよく見て知っているとおり、不品行な者や、汚れた者や、むさぼる者――これが偶像礼拝者です。」また、コロサイ3:5節「ですから、地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。」1コリント10:7節「あなたがたは、彼らの中のある人たちにならって、偶像崇拝者となってはいけません。聖書には、『民が、すわっては飲み食いし、立っては踊った。』と書いてあります。」そして1サムエル15:23節「まことに、そむくことは占いの罪、従わないことは偶像礼拝の罪だ。」とあり、聖書が語る偶像礼拝とは神のことばに従わないことだとわかります。ではなぜ神のことばに従わないことが偶像礼拝なのか?それは、神の言葉に従わないことは、悪魔のことばに従っていることになるからです。これは人類に対する悪魔の巧妙な手段です。

2022年7月3日(日) 主日礼拝メッセージ

《一粒の麦》    『聖霊は御国の保証』(エペソ1:3~14節)

 「すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。」(エペソ1:4~5節)この救いの計画は世界の基の置かれる前から、万物の創造の前から計画されていたと言うのです。とても信じ難い事ですがそう書かれているので間違いありません。

 このことが事実なら私たちの考えを根底から変えなければならない事態です。なぜなら万物の創造が神の子どもたちの救済計画のために成されたことになるからです。どのような理由で創造主なる神にとって私たちがそれほど大切な存在なのでしょうか?私たちには皆目わかりませんが、他のみことばもそのことを肯定しています。たとえばイザヤ書43:4節「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。」私たちの目にはとてもそのようには見えませんがみことば間違いなくそう言っているのです。

 また、私たちはイエスさまを主と信じ受け入れるなら神の国に入ることを保証されると信じていますが、エペソ1:14節「聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証であられます。」私たちが御国を受け継ぐことの保証、つまり永遠のいのちの保証は聖霊さまにあると言うのです。私たちは洗礼を受けたからとか、礼拝に出席しているからとか、教会に所属していることの理由で救われていると思いがちですが・・・。

2022年6月12日(日) 主日礼拝メッセージ

《一粒の麦》    『土の器の中に宝が・・』(コロサイ1:24~29節)

 パウロは福音を異邦人に宣べ伝えるために受ける苦難を、「キリストのからだのために、私の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです。」(コロサイ1:24)と言っていますが、このみことばはイエスさまの十字架が不完全であったかのように受け取られかねない箇所でもありますが、真の意味はキリストの体である教会を建て上げるために、弟子たちが苦難を受ける余地をキリストご自身が残して下さっていたということです。

 同1:26~27節、「これは、多くの世代にわたって隠されていて、いま神の聖徒たちに現わされた奥義なのです。神は聖徒たちに、この奥義が異邦人の間にあってどのように栄光に富んだものであるかを、知らせたいと思われたのです。この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。」たとえ異邦人であってもユダヤ人と同じ恵みを受けることが出来るのだと大胆に宣言しているのです。このことはパウロが神から受けた啓示であり奥義です。さらにその奥義は、「あなたがたの中におられるキリスト」です。ガラテヤ4:19節「私の子どもたちよ。あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています。」エペソ書1:18~19節の意味も同じです。「あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。」

2022年6月5日(日) 主日礼拝メッセージ

《一粒の麦》    『今、御声を聞くなら・・』(使徒28:17~31節)

 パウロがロ-マ行きの希望を最初に語ったのは、第三回の伝道旅行中、エフェソにおいてでした。「わたしはそこへ行った後、ローマも見なくてはならない」(使徒19:21)です。その後、ギリシアのコリントに行き、三か月滞在(20:3節)していたときに、「ローマ人への手紙」(57年頃)を書き送ったとされています。そして23:11節では、「その夜、主がパウロのそばに立って、『勇気を出しなさい。あなたは、エルサレムでわたしのことをあかししたように、ローマでもあかしをしなければならない。』・・」と言われ、パウロのローマ行きはパウロ自身から出た考えではなく主のみこころであることは次のみことばからも確認することができます。「これらのことが一段落すると、パウロは御霊の示しにより、・・」(使徒19:21)

 パウロが幾多の苦難の末ローマ入りしたのが60年頃で、ローマ人への手紙を書いてから約3年が経過していました。そしてパウロのローマでの生活はかなりの自由が与えられたようで、「私たちがローマにはいると、パウロは番兵付きで自分だけの家に住むことが許された。」(使徒28:16)とあり、「三日の後、パウロはユダヤ人のおもだった人たちを呼び集め、彼らが集まったときに、こう言った。」(28:17節)多くのユダヤ人が自由に出入りしていたことがわかります。パウロは朝から晩まで訪ねて来たユダヤ人に、モーセの律法と預言者たちからイエスがキリストであることを理路整然と語りますが、かたくなで信じようとしないユダヤ人に対してパウロはイザヤ書6:9節を引用して言い放ちます。このみことばはイエスさまも引用した箇所です。みことばに対してかたくなであってはなりません。

 

 

2022年5月15日(日) 主日礼拝メッセージ

《一粒の麦》  『蛇のようにさとく』(使徒22:30~23:11節)

 ユダヤ人たちにとって割礼は最も重要な宗教儀式の一つと言えるでしょう。その割礼をパウロが無用の長物であるかのように教えていると思い込んだユダヤ人は、神殿の中でパウロを見つけ瞬く間に暴動に成り兼ねない事態を察し、千人隊長はひとまずパウロを兵営に留めます。しかし、これら一連の成り行きはパウロをローマに導くための主の計画です。 「その夜、主がパウロのそばに立って、『勇気を出しなさい。あなたは、エルサレムでわたしのことをあかししたように、ローマでもあかしをしなければならない。』と言われた。」(23:11節)。千人隊長は時を移さず、祭司長たちと全議会を招集します。ここでのパウロのことばと行動はマタイ10:16~20節を想起させます。「わたしが、あなたがたを遣わすのは、狼の中に羊を送り出すようなものです。ですから、蛇のようにさとく、鳩のようにすなおでありなさい。人々には用心しなさい。彼らはあなたがたを議会に引き渡し、会堂でむち打ちますから。・・・それは、彼らと異邦人たちにあかしをするためです。人々があなたがたを引き渡したとき、どのように話そうか、何を話そうかと心配するには及びません。話すべきことは、そのとき示されるからです。というのは、話すのはあなたがたではなく、あなたがたのうちにあって話されるあなたがたの父の御霊だからです」 私たちはこのような状況に遭遇すると、つい慌てて自分の考えで語ろうとし行動するものです。人間的な考えでは最悪の事が起こっているような時でも、神はみこころを成し遂げるために最善を成しておられることを信じる必要があります。結果的にパウロは護送されローマに入ることになります。

2022年5月8日(日) 主日礼拝メッセージ

《一粒の麦》  『パウロの決意』(使徒20:17~38節)

 パウロの第三次伝道旅程においてはエペソには立ち寄らずミレトからエペソに使いを送って教会の長老たちをミレトに集め語った内容が今朝の聖書箇所に記されています。その中でパウロが語った内容が衝撃的です。「けれども、私が自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません。皆さん。御国を宣べ伝えてあなたがたの中を巡回した私の顔を、あなたがたはもう二度と見ることがないことを、いま私は知っています。」(使徒20:24~25節)。この時点でパウロは自分の死期が近づいていることを告白します。それが上記のみことばです。

 これを聞いたエペソの長老やミレトの信者が動揺したことは想像に難くありません。何とかパウロを引き止めようとこころみますがパウロの決意は堅くすでに死をも覚悟していることを察します。神のみこころであるなら喜んで死をも受け入れるパウロの信仰に圧倒されます。パリサイ人の家に生まれ、パリサイ人の父の教えに従順に従い、生涯をもこの神に捧げる決心をしたパウロにとってイエスの教えはとんでもない異端であり、ユダヤ教の敵であり、その教えを信奉する信者たちも同様に憎しみの対象であり、ステパノの殉教に際しては首謀者として振る舞い、大祭司からダマスコにいる信者たちを捕縛してエルサレムに連行する許可まで取り付け、使命感と怒りに満ちてダマスコに向かう途上において主は彼にご自身を現わされます。この経験を通して劇的な回心をし主の弟子と変えられます。

2022年5月1日(日) 主日礼拝メッセージ

《一粒の麦》  『イエスがキリスト』(使徒18:1~11節)

 アテネを出発したパウロはコリントの町へ。ここでパウロはユダヤ人信者アクラとその妻プリスキラに出会うことに。このアクラとプリスキラ夫妻がコリントに滞在していた理由は、AD46年、ローマ皇帝クラウデオがユダヤ人へのローマ追放令が原因です。当時のローマの教会は異邦人信徒とユダヤ人信徒が混在していたのですが、ユダヤ人信徒はこの追放令でローマを離れることになります。そのためローマ教会は一時的にユダヤ色が影を潜める結果となりますが、やがてユダヤ人信者もローマに徐々に戻るようになり、教義的な対立が表面化します。ローマ人への手紙でパウロはこの問題を念頭にユダヤ人信者と異邦人信者の和解と一致を説いています。

 パウロはこの素晴らしいアクラ夫妻と生活を共にしながらコリントで1年半腰を据えて伝道することになります。パウロの目的はコリントの人たちが「ナザレのイエスがキリスト(メシヤ、キリスト、救世主)であること」を信じるようになることです。使徒18:5節「そして、シラスとテモテがマケドニヤから下って来ると、パウロはみことばを教えることに専念し、イエスがキリストであることを、ユダヤ人たちにはっきりと宣言した。」、また使徒17:3節にも「そして、キリストは苦しみを受け、死者の中からよみがえらなければならないことを説明し、また論証して、『私があなたがたに伝えているこのイエスこそ、キリストなのです。』と言った。」聖書の目的はイエスがキリストであり、天地万物の創造主なる神であり万物の支配者であることを私たちが信じるための書です。

2022年4月17日(日) 主日礼拝メッセージ

《一粒の麦》   『主のよみがえり』 (マルコ15:21~41節)

 ローマ書4:25節に「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。」とあるように、イエスさまの十字架の死は私たちの罪を贖うための死であることがわかります。そして復活は私たちが義と認められるためにとはどういうことでしょうか?

 また、Ⅰコリント15:12~14節「ところで、キリストは死者の中から復活された、と宣べ伝えられているのなら、どうして、あなたがたの中に、死者の復活はない、と言っている人がいるのですか。もし、死者の復活がないのなら、キリストも復活されなかったでしょう。そして、キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。」コリントの教会においても復活を信じることができない信者がいたことがわかります。そもそも復活を信じることができない者が信者になること自体有り得ないことですが。ローマ書10:9節「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。」

 私たちが救いを受けるためにはイエスを主の信じることですが、その告白の中に「イエスさまが三日目に復活された」との事柄が含まれていることを忘れてはならないのです。主の復活の出来事を自分の能力や知識でできるものではありません。復活の信じる信仰は神の恵みと憐れみ以外にないことを心すべきです。

2022年3月13日(日) 主日礼拝メッセージ

《一粒の麦》   『わたしの肉を食べ・・・ 』(マルコ14:10~26節)

 マルコ14:2節には、「彼らは、『祭りの間はいけない。民衆の騒ぎが起こるといけないから。』と話していた。」とあり、イエスを殺そうと計画している者たちは民衆の暴動を恐れて過越の祭りの後にイエスを殺そうと計画していたことが窺えます。しかし、主の十字架の死は過越の祭り日以外になく、その日が変更されることはありません。救い主の誕生地が預言ではベツレヘムです。しかし臨月を迎えたマリヤは数十キロも離れたナザレに居て、預言の成就が危ぶまれる中で突然ベツレヘムへ行かなければならない命令が出たことにより預言が成就したことは周知の通りです。これは決して偶然ではありません。聖書の記述が如何に信頼に足るものであるかを証明するものです。

 そして、主は弟子たちとの最期の晩餐の席で重要なことを語られました。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。」(ヨハネ6:53~55節)主が語られたこのことばを聞いた多くの弟子たちが離れ去ったことは悲劇です。「こういうわけで、弟子たちのうちの多くの者が離れ去って行き、もはやイエスとともに歩かなかった。」(ヨハネ6:66)主が語られたみことばを曲解したことによる不幸です。肉を食べるとは、昼も夜も聖書のみことばを口ずさむことであり、血を飲むとは、聖書のみことばがすべて真実であることを主は十字架の血で保障され、それを信じた私たちは契約の民となったのです。

2022年2月27日(日) 主日礼拝メッセージ

《一粒の麦》   『すべての民の祈りの家』(マルコ11:12~25節)

 「イエスは宮に入り、宮の中で売り買いしている人々を追い出し始め、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛を倒し、また宮を通り抜けて器具を運ぶことをだれにもお許しにならなかった。そして、彼らに教えて言われた。『わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる』書いてあるではありませんか。」(マルコ11:15~17節)この書いてあるとはイザヤ書56:7節に書き記されています。イエスは、ベタニヤからエルサレムに来て、早速神殿にお入りになりました。イエスは、神殿での礼拝がどのように行われているのか。期待して入られたことでしょう。ところが、その有様は何とも耐え難い状況だったのです。外国人(異邦人)にも、神殿の異邦人の庭において、祈りを行うことができることになっていました。その異邦人の庭で、牛や羊や鳩を売る者たちと両替人たちが商売をしていたのです。ユダヤ人は、異邦人の庭で両替を行い、いけにえの動物を買って奥の男子の庭や婦人の庭に入って礼拝が出来ましたが、異邦人はこの異邦人の庭でのみ礼拝をささげることができました。それなのに、この商売人たちのために閉め出され、礼拝が出来る状態ではなかったのです。そこでイエスは怒り乱暴な方法でやるしかなかったのです。また、いちじくの木を見つけて、葉のほかは何もないことに気づかれた。いちじくのなる季節ではなかったのですが、それを枯らしてしまいました。まさにこの実がない状態が、神殿で行われている人たちのことだったのです。私たちは、季節には関係なく一年中実をつけることを求められています。この山に向かって、「動いて、海に入れ」と言って心の中で疑わず信じるなら、その通りになるという信仰の実を持ち続けたいものです。

2022年2月20日(日) 主日礼拝メッセージ

《一粒の麦》   『不信仰を嘆かれる主』(マルコ9:14~29節)

 ペテロ、ヤコブ、ヨハネは変貌山の出来事を見てイエスがメシヤであることを確信しますが、主はご自身が死人の中からよみがえるときまで他言しないようにときつく命じられ山から下りてきます。すると、麓ではちょっとした事件が勃発していたのです。それは、口をきけなくし、耳を聞こえなくする霊に取り憑かれた息子を連れてきた父親に頼まれた弟子たちがその悪霊を追い出せなかったことに対する論争です。

 マタイの福音書では17:14~21節に同じ出来事が記されていて、「そのとき、弟子たちはそっとイエスのもとに来て、言った。『なぜ、私たちには悪霊を追い出せなかったのですか。』イエスは言われた。『あなたがたの信仰が薄いからです。』・・」(マタイ17:19~20節)マルコではこのことが書かれていません。主は信仰がないとは言っていません。「もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、『ここからあそこに移れ。』と言えば移るのです。」(マタイ17:20節)。今朝の礼拝に来られている方は洗礼の有無に拘わらずからし種よりも大きな信仰を持っていることに疑いの余地はありません。では、なぜ山は動かないのでしょう?それは信じた通り行動しないからです。信仰が薄いと信じた通りに行動できず、どこかで偽善的信仰にならざるを得ません。よく言われる「本音と建前」をうまく使い分けてしまうのです。私たちは子どもから大人になる課程において裏と表を器用に使い分ける術を覚えてしまうのだと思います。各々が素直だった小さい頃を思い出して初心に帰ることに努力すべきです。何もしなかったら変わることは到底望めません。ここに多少の葛藤が起こります。しかし、それは恵みを受けるために報われる犠牲です。恐れることはありません。

2021年11月28日(日) 主日礼拝メッセージ

《一粒の麦》  『メシヤ王国到来のはずが・・』 (イザヤ11:1~10節)

 今朝のイザヤ書11:1~10節は俗に言う千年王国またはメシヤ王国がテーマです。またその王国がどのようなものかを預言した箇所です。イザヤ書65:17~25節も同じ内容の預言です。新約の時代に生きる私たちキリスト者はこの預言がイエスさまの再臨の時に成就するものだと思っていますが、ユダヤ人はこのメシヤ王国がメシヤ初臨の時に起ると信じていたことは間違いありません。その根拠として使徒の働き1:6~7節「そこで、彼らは、いっしょに集まったとき、イエスにこう尋ねた。『主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか。』イエスは言われた。『いつとか、どんなときとかいうことは、あなたがたは知らなくてもよいのです。それは、父がご自分の権威をもってお定めになっています。』・・」また、ルカ19:11節「人々がこれらのことに耳を傾けているとき、イエスは、続けて一つのたとえを話された。それは、イエスがエルサレムに近づいておられ、そのため人々は神の国がすぐにでも現われるように思っていたからである。」

 イエスさまが来られた2千年前のイスラエルはメシヤを最も待望していた時代でもあり、イエスがメシヤである証拠は掃いて捨てるほどあったにも拘わらず、ユダヤ人たちは、メシヤでない理由を探すことに奔走し、主が語られるみことばの意味を理解することができず最悪の結果を招いてしまいます。神はユダヤ人が公にイエスがメシヤであることを拒否した時点で別の計画も着々と進めておられました。それは新約時代という二千年の教会時代です。そのために弟子たちを訓練することに多くの時間を割くようになり話し方も喩え話すことが目立つようになります。そしてその教会時代も終わろうとしています。

2021年10月24日(日) 主日礼拝メッセージ

《一粒の麦》   『メシヤ王国』(詩編72:1~14節)

 「神よ。あなたの公正を王に、あなたの義を王の子に授けてください。彼があなたの民を義をもって、あなたの、悩む者たちを公正をもってさばきますように。山々、丘々は義によって、民に平和をもたらしますように。彼が民の悩む者たちを弁護し、貧しい者の子らを救い、しいたげる者どもを、打ち砕きますように。彼らが、日と月の続くかぎり、代々にわたって、あなたを恐れますように。彼は牧草地に降る雨のように、地を潤す夕立のように下って来る。彼の代に正しい者が栄え、月のなくなるときまで、豊かな平和がありますように。」(詩編72:1~7節)ここに記されているような王国は今に至るまで実現したためしがありません。ダビデ王国にしてもソロモン帝国にしても遠く及びません。地上でこのような理想的な王国が現れるというような希望は持てません。

 しかし、旧約聖書ではこのような国がやがて現れると預言しているのです。イザヤ書65:17~25節もその一つです。これは俗に千年王国とかメシヤ王国と呼ばれるものです。イエス・キリストが地上で王として治められる王国のことです。ユダヤ人が公にイエス・キリストを来たるべきメシヤだと受け入れていれば、このメシヤ王国は二千年前に地上に間違いなく実現したいたにも拘わらず、ユダヤ人が公然とイエスを拒否した結果、メシヤ王国の到来は延ばされ現在に至っています。主が雲に乗って再び地上に来られる時は近づいています。その時、再臨のキリストを自分の目で見ることになりますが、その時を何もせず唯ひたすら待つのではなく、「わたしが来たのは、地に火を投げ込むためです。だから、その火が燃えていたらと、どんなに願っていることでしょう。」(ルカ12:49)信仰復興です。

2021年10月17日(日) 主日礼拝メッセージ

《一粒の麦》   『万軍の主、これぞ栄光の王』(詩編24:1~10節)

 神と人間との関係を三つの段階に分けて説明することができます。まず一つ目の関係は未信者です。イエス・キリストを救い主と受け入れない人々のことです。この状態の深刻な問題は、神の目から見て死んだ状態だということです。二つ目の関係はイエス・キリストを自分の救い主として受け入れている人です。この状態は確かに罪の赦しと永遠のいのちの保障は受けてはいますが、肉的なクリスチャンで硬いものが食べられず依然とねたみや争いが絶えません。三番目の関係は、イエス・キリストを救い主、全知全能の神として自分の心の王座に迎え入れることです。このとき私たちは主の足下にひざまずいて礼拝することになります。神が私たちに求められる関係は三番目の状態です。今朝の詩編24編はまさにそのことを私たちに問いかけているみことばだと思っています。「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」(黙示録3:20節)

 ヨハネ14:23節「イエスは彼に答えられた。「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。」私たちが信じている神は万物の創造主なる神で、見える世界も見えない世界も支配し、全知にして全能なる神です。そのお方が私たち信じる者全てと共にあって人生を歩んで下さるのです。「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。」(ローマ8:31節)人生に何が起ころうとも恐れる必要がありません。神が共に居て下さるためには肉的な思いでなく御霊の思いに従う選択を迫られます。

2021年10月10日(日) 主日礼拝メッセージ

《一粒の麦》   『死の影の谷を歩むとも』(詩編23:1~6節)▼ 私たちの神は羊飼いなる神でもあります。「わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っています。また、わたしのものは、わたしを知っています。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同様です。また、わたしは羊のためにわたしのいのちを捨てます。」(ヨハネ10:14~15節)私たち日本人はテレビなどで遊牧民が羊や山羊を広大な野山を導く姿を目にする位で、あまり馴染みがなく理解するのが難しいのが現状です。どこを見ても岩だらけの地が広がっています。そのような所できれいな飲み水を与えなければなりません。日本のように青々とした草木が豊富にあるわけでもないのです。夜はいつ襲ってくるかわからない野獣から羊を守るために、野外で杖を支えに定期的に目を覚まして寝る状態です。その上毎日、一頭一頭の健康状態に気をつけていなければならず、羊飼いの仕事はやってみなければ分からない過酷な労働なのです。▼ イエスさまがマリヤからお生まれになったとき、御使いから最初に受胎告知の良い知らせを受けたのは野宿をしていた羊飼いたちでした。そして主は前述のみことばにあるように「わたしは良い羊飼い・・・わたしは羊のためにわたしのいのちを捨てます。」と言われた通り、j十字架の死を遂げられ、今も信じる私たちを離れずあらゆる問題と危険から守っていて下さるのです。ですから私たちが注意することは主の戒めを守ることです。ヨハネ15:10節「もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。」戒めに従わないことは、主の守りの保障を失うことだと知るべきです。

 

2021年9月19日(日) 主日礼拝メッセージ

《一粒の麦》   『聞く者は、生きる!』(エゼキエル37:1~14節)▼ 「主の御手が私の上にあり、主の霊によって、私は連れ出され、谷間の真中に置かれた。そこには骨が満ちていた。主は私にその上をあちらこちらと行き巡らせた。なんと、その谷間には非常に多くの骨があり、ひどく干からびていた。・・・・・主は私に仰せられた。『これらの骨に預言して言え。干からびた骨よ。主のことばを聞け。神である主はこれらの骨にこう仰せられる。見よ。わたしがおまえたちの中に息(霊)を吹き入れるので、おまえたちは生き返る。・・・・・すると、骨と骨とが互いにつながった。私が見ていると、なんと、その上に筋がつき、肉が生じ、皮膚がその上をすっかりおおった。しかし、その中に息(霊)はなかった。・・・・息(霊)よ。四方から吹いて来い。この殺された者たちに吹きつけて、彼らを生き返らせよ。』私が命じられたとおりに預言すると、息(霊)が彼らの中にはいった。そして彼らは生き返り、自分の足で立ち上がった。非常に多くの集団であった。」(エゼキエル37:1~10節)▼ エゼキエルが見せられた幻の中身は、大きな谷間が人間の骨で埋め尽くされているようなおぞましい情景です。これは大量殺戮(さつりく)によって積み上げられた人間の死体ではありません。あえて言うならば現在の日本の姿を描写しているような光景でしょう。ヨハネ5:25節のことばは実に不可解です。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。そして、聞く者は生きるのです。」主はここで、生きることの真の意味を話されたのです。三位一体の神との生きた交わりなくして永遠のいのちはないのです。Ⅰヨハネ1:1~3節がその意味です。

 

2021年9月12日(日) 主日礼拝メッセージ

《一粒の麦》   『あなたがたのためではない』(エゼキエル36:24~38節)

 「わたしはあなたがたを諸国の民の間から連れ出し、すべての国々から集め、あなたがたの地に連れて行く。」(エゼキエル36:24)この預言は実に2600年後に見事に成就しました。この預言はユダヤ人の世界離散(AD70年)の約600年前に書かれており、そのイスラエル人が再びすべての国々から集められ国を再建するのは1948年で、その間彼等は1900年の間、祖国を無くした民族として世界の何処に行っても迫害を受けながら生き延びてきたのです。エレミヤもイザヤも同じ預言をしています。

 イエス・キリストを頑なに拒み続けてきたユダヤ人がやがて大いなる恵みを受ける時が来ると言うのです。初代教会のユダヤ人が受けた恵み(聖霊の満たしを伴う救い)を再び受ける時が来ると言うのです。「その奥義とは、イスラエル人の一部がかたくなになったのは異邦人の完成のなる時までであり、こうして、イスラエルはみな救われる、ということです。」(ローマ11:25~26)。頑なにメシヤを受け入れなかったユダヤ人が一人残らず民族的救いに与る時が来るのです。それは異邦人の時が終わる時だと言われいるので、多くの人が考えている程に異邦人の救いの時間は多く残されていないと思っています。

 「あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。わたしの霊をあなたがたのうちに授け、わたしのおきてに従って歩ませ、わたしの定めを守り行なわせる。」(同36:26~27)聖霊のバプテスマを伴う救いの恵みを心を合わせて激しく求めることが今求められていると思っています。聖霊さまに対する激しい渇きを与えられるように祈りましょう。